今回は、20年以上前から「脳をモデルとしたコンピューティング技術」に取り組まれ、世界中の開発者にインスピレーションを与えつつ、その動向を牽引されてきた、柴田先生にお話しを伺いました。
−先生が目指してこられたものを、ご教示いただけないでしょうか。
私の目指すところは、半導体VLSIチップの新たな可能性の追求です。
これまでは、計算を正確に高速に演算するという技術でした。
そうではなく、もっと柔軟なコンピューティングを行うハードウェアです。具体的には、脳の回路ではなく、脳の動作を模倣するコンピュータの実現です。
過去のコンピューティング技術では、シリコン・テクノロジの可能性を十分には生かし切れていないと思っています。我々には、これまで作り上げてきたインフラと、ノウハウと、それから、育ててきた人材があります。それらを活用し、新たな可能性を引き出したいというのが私の考えです。
ニューラル・ネットワークや、「ニューロナル・ネットワーク」と呼ばれるものは、生体の原理を電子回路で実現するという発想です。私の考えはこれとは違い、コンピューティングの観点から脳の働きを一般化した、脳型コンピュータ(“Brain Computing”)をVLSIチップで作るという発想です。
−「脳の動作を模倣するコンピュータ」は、どのような性能を持つのでしょうか。
「汎用コンピュータ+ソフトウェア」で対応する場合の「10の4乗」から「10の5乗」の性能向上を目指してチップを作ろうと目標を決めました。つまり、スピードが同じだったら、パワーが10の4乗分の1から10の5乗分の1が狙わなくてはいけないターゲットと考えました。
そして、大体、これは実現して来ました。
−どのような手法で実現したのでしょうか。
「脳の動作を模倣するコンピュータ」は、研究者によって様々なアプローチで取り組まれています。
脳神経の動作モデルをデジタル回路やアナログ回路で実装するのが目的で、脳の動きをミクロな解剖学や生理学のレベルから真似ようという発想の研究者もいます。
それに対して、私は、もっと脳の本質に近づきたいと思い、生体の現実、例えば皮膚の感触であるとか、運動神経であるとか、目がどう見えているかを調べて行きました。脳の中で起こっている過程を理解するためです。そして、神経回路の細かい化学反応そのものを模倣するよりも、もっと上の階層で脳の動作を抽象化し、そのデータ変換動作を模倣する手段を開発することが現実的との結論に至りました。それは、脳の中のコラムと呼ばれる構造を意識したAssociative Memory(連想メモリ)を使う方法です。
我々の脳は、現代のシリコン・コンピュータとは違う生体コンピュータです。私は、「脳の動作を模倣するコンピュータ」を、日本の半導体をもう一回復活させる上での「キー・コンセプト」とできないかなと思っています。
−具体的な応用例を挙げて頂けないでしょうか。
脳型コンピュータの判断は、間違う事もありますけども、高速で低消費電力というメリットがあります。
いくら高度な計算が出来てもそれが5秒後だったら駄目という問題は沢山あります。
例えば、自動運転です。
子供が自動車の前に飛び出してきたとき、画像処理を行い、子供が来たことを理解し、この時に一番いい答えは何かを全部計算して、計算が終わった後にブレーキをこのくらい踏む。こういう処理は、高精度の計算で出来るかもしれませんが、それでは対応が遅すぎるでしょう。 人間は、深い計算をしないで、その危険な状況を理解して、すぐに適切な行動をとることができます。
これからのコンピュータでは、そのような、人間が行うような処理動作が求められます。
−先生は、コンセプトの重要性を強く主張されていますが、もう少しご説明をお願いします。
今、日本の半導体産業は大きな変革期を迎えていますね。
最近の先端テクノロジというのは、相当な技術力ですよ。そのテクノロジを、単価を安くするためにだけに使うのではなく、また、北米の企業が作っている商品を真似するのでもなく、知恵を出すことによって、世界をリードしてほしい。
北米企業が優れているのは、社会をリードする製品や事業のコンセプトがしっかりしていることです。
例えば、IBM社からシナプス・チップというのが出て来ています。1チップに100万ニューロンが入り、その16チップ位の並列動作が証明されています。私とは考えが違いますが、新しいコンセプトを開拓する姿勢には共感します。
コンピューティングという技術は、要らなくなる事は絶対にないと思いますから、コンセプトや実現する技術を追求する必要があります。
コンピューティングを分類する時に、必ずしも全てがデジタルの精度が必要とは限らないことに注目すべきだと思います。コンピューティングには、二つのカテゴリーがあります。
ひとつは、 銀行口座の計算であるとか、 科学計算のシミュレーションです。これらは、要求された精度の計算が必要です。
一方で、計算の精度が問われない場合もあります。例えばテレビ電話では、顔が写らない場合や声にノイズが入る場合もありますが、大きな支障にはなりません。
さらに、我々の思考パターンというのは、不完全な解や、ある意味でのエラーを許容しています。
例えば、人影を見て、「あ、あの人だろう」と思ってよく見たら、実は違っていたという事もあります。 でも、それでいい。画像の認識に関しては、精度が要らないアルゴリズム部分は結構多いのです。
繰り返しますが、過去の知識の中から近い物を探してくるような場合には、デジタルの16ビットの精度は要らないわけです。大胆にアナログ回路であるとか、もっと言えば物理現象を直接演算に使うところに持って行っても構わない。
−なるほど、必ずしも“デジタルありき”ではないのですね。
最後に日本の半導体メーカーへ何かアドバイスを頂けますでしょうか。
異分野の人が集まって本音の議論をしていると、こういう風にして行ったらどうかとか、こんな発想が面白いんじゃないかとか、新しい方向性や次の道がだんだんと見えてきます。
つまり違う分野の考え方を理解し、異分野を融合して新たな分野を開拓していかないと、これからの時代を切り開くことはできないと考えます。
一例として今のアップル社は既存のLSI 技術、既存のメモリ技術、それと、スティーブ・ジョブス氏が唱えた人間の思考パターンにこだわった商品化技術、そして、それを支えるソフトウェアというもので勝負しています。
これからの日本の企業は、異端的なコンセプトを持って挑戦していくことが重要になると思います。
1971年 大阪大学工学部電子工学科卒
1973年 大阪大学大学院・基礎工学研究科修士課程・物性学専攻修了
1974年 同大学院博士課程中退
1984年 東京大学工学博士
1974年 - 1986年(株)東芝・ULSI研究所・研究員
1986年 - 1997年 東北大学工学部電子工学科・助教授
1997年 - 1999年 東京大学工学系研究科・教授
1999年 - 2008年 東京大学新領域創成科学研究科・教授
2008年 - 2013年3月東京大学 工学系研究科・電気系工学専攻 教授
2013年4月 - 現在 公益社団法人 応用物理学会 物理系学術誌刊行センター APEX/JJAP 専任編集長、東京大学名誉教授